※30分で書いたガバ文章です。

上野竜太郎氏というニートで選挙に出た人が興味深いツイートをしてました。
https://twitter.com/uenoryutaro/status/716555772843335680?lang=ja

アルバイト経験すら無しの25歳ニートで千葉市議会議員選挙に出て、当選しなかったものの供託金没収ラインを突破するだけの票を集めたということで、話題になった人らしいです。今は高齢者施設の職員になっているとか。

以下、氏のツイート引用。

「恐らく多くの人々が「認知症と言うものが無くなって欲しい、完治して欲しい」と願う中でこういう考えは或いは本末転倒で非進歩的なのかもしれませんが
私はこの国が「高齢者も若年者も安心して認知症になれる社会」になって欲しいと思うのです」


俺も福祉系の会社務めなので、なんとなく共感できるとことがあります。

大学院時代の師匠は、(本当はもっと専門用語を使ってるんですが)、

「当時者の障害を『治して』周囲に適応させるのではなく、当時者が周囲から褒められたり、活動の中で達成感や楽しさを得られるようにするためには何がこの場に足りないかを考えろ」

とよくおっしゃっていました。

何らかの活動を楽しめる、人から褒められる時間や機会が増えれば、相対的に問題行動を起こしている時間は減る、というタイプのアプローチであると俺は解釈しています。

また、「そもそも『障害』(とそれに伴う問題行動や課題)とは、周囲の環境設定が足りてないから起こるもの(存在する)であり、当時者の体の中の問題や性格の問題、心理的な問題のみに集約してはいけない」ともよくおっしゃっていました。

小難しいことをグダグタ言いましたが、医学上の「認知症」や「発達障害」のラベリングを外す(『治す』)ための訓練や治療をしなくても、環境を整えて当時者が日々の生活を楽しめるようにすれば、問題行動も減り、本人も楽しく生活できるようになるのではと考えています。

「礼記」(大昔の儒教の本)に

「小人閉居して不善を成す」(つまらない人間が暇をするとろくなことをしない)

という言葉がありますが、実は「閉居している(ないしは閉居から脱する術が無い)から不善を成す」んじゃないかと思います。

最近でも、「暇だから」とか「話し相手がいない」とか「食べ物がないから」という理由で、進んで刑務所にやってくる高齢者が後を絶たない、これでは刑務所がパンクしてしまうというニュースがありましたし、わりと「楽しめる時間」「褒められる時間」を社会生活の中で用意することが、問題行動の低減にとっても、本人の幸せにとっても重要ではないかと思うのです。

そういう意味で、「安心して年を取れる」「安心して認知症になれる」ないしは「(医学的な)障害があっても、安心して暮らせる」社会とは、当時者にとっても周囲の人にとっても理想的な社会じゃないかなと思っています。

「誰が面倒見るんだよ」「そんなのはうちでは到底無理」ということもありますが、これは家族だけでも無理ですし、専門家だけでも、行政だけでも、施設職員だけでも無理だと思います。そこで、出てくるのが今、様々な業界で話題になっている「連携」の出番かな、と考えています。

これ以上書くとエライ事になるので今日はここまで。

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